2016年9月10日土曜日

史料集、高良社・本山寺・本山庄の刊行

史料集、高良社・本山寺・本山庄 を、CD仕様にて、上坂氏顕彰会史料出版部より刊行いたします。
第一巻は、天野民部蒸遠景候関係文書の吾妻鏡篇です。
合掌。

上坂氏顕彰会史料出版部 
kousakashikenshoukai@gmail.com


2016年7月28日木曜日

ブログ名の変更、並びに、ブログ姉妹編を開設



本ブログの名称を、以下の通り、変更いたしました。
合掌。

伝える会  高良社(讃岐篇)


亦、新たに、ブログの姉妹編を用意、内容の充実を図ります。
合掌。

伝える会  高良社(全国篇)
http://kourashazenkokuban.blogspot.jp/

2016年6月14日火曜日

史料 その十八  古事談に見る天野遠景

古事談の第四勇士の項に、遠景入道の名を見出すことが出来る。
以下、当該箇所を、テキスト表示した。

合掌。

鎌倉にて庄司次郎・稲入道など被之時、稲の舎弟ゆの七郎と者、遠景入
許に出来りて云、己被結悪縁、不可免其難。雖須自害、年来有往生極楽之
自害は臨終正念、恨不如本意聞被頸之者不往生伝々。依之御房
のみこそ令哀憐給はめと、所参向也。可然者向西方合掌、唱念佛之間、可刺殺
伝々。遠景随喜悲泣申事由、濱行きて刺殺の處、十二刀まで一切の聲
休。千時止念佛云、猶可死之心にもせぬ也。心先を可刺伝々。又高聲念佛之間、
如云心先を之時、止聲氣



 古事談 第四 勇士 138頁  (国史叢書)

古事談 第四 勇士 139頁  (国史叢書)

2016年6月3日金曜日

史料 その十七  北條九代記に見る天野遠景

改訂書籍収攬第五巻所収「北條九代記」は、近年、続史料大成に収録された「鎌倉年代記」と同系の書冊と考えられ、鎌倉幕府の吏僚が記した武家年表とでも称して佳いかと思う。
本書の内に、天野遠景の名を、三件見出した。
因みに、淺井了意の著した「北條九代記」は、仮名草子であり、内容を異にするものである。
合掌。


 北條九代記(改訂書籍収攬第五巻

北條九代記(改訂書籍収攬第五巻

北條九代記(改訂書籍収攬第五巻


参考
本ブログに於ける、天野藤内遠景候に関する既出史料を、以下、列挙する。
合掌。

史料 その八  天野遠景、款状を執権北条義時に致して恩賞を望む
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/03/blog-post_25.html

史料 その十  吾妻鏡に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/04/blog-post_21.html

史料 その十一  大日本史料に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/05/blog-post_1.html

史料 その十二  鎌倉遺文古文書編に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/05/blog-post.html

史料 その十四  古今著聞集に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/05/blog-post_30.html

史料 その十五  曽我物語に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/06/blog-post.html

史料 その十六  平家物語に見る天野遠景
http://kouranoyashiro.blogspot.jp/2016/06/blog-post_84.html

2016年6月2日木曜日

史料 その十六  平家物語に見る天野遠景

平家物語、巻第十、藤戸。
この項を紐解くと、天野藤内遠景の名を見出すことが出来る。
合掌。


平家物語(日本古典全集刊行会1929)

 平家物語(日本古典全集刊行会1929)

 平家物語(日本古典全集刊行会1929)

 平家物語(日本古典全集刊行会1929)

 平家物語(日本古典全集刊行会1929)

 平家物語(日本古典全集刊行会1929)

平家物語(日本古典全集刊行会1929)

2016年6月1日水曜日

史料 その十五  曽我物語に見る天野遠景

日本古典全集所収「曾我物語」の巻第一、頼朝伊東の館にまします事。この項を紐解くと、天野藤内の名を見出すことが出来る。
合掌。


是れを間きて、三浦、鎌倉、土肥次郎、岡崎、本間、渋谷、糟屋、松田、土屋、曾我の
、思ひ思ひに出立ちける程に、近の侍聞きへ、「我も如何でかるべき、いざや参らん」とて、相撲には大庭が舎弟三郎、俣野五郎、こし十郎、山内瀧口太郎、同じく三郎、海老名源八、荻野五郎、駿河には竹下孫八、合澤禰五郎、吉河、船越、入江の人、伊豆には北條四郎、同じく三郎、天野藤内、狩野藤五を始として、宗徒の人五百人、伊豆の伊東へぞ参りける。



 曾我物語(日本古典全集刊行会1929)

 曾我物語(日本古典全集刊行会1929)

曾我物語(日本古典全集刊行会1929)



補遺
御橋悳言著作集三に収録された「曾我物語注解」では、以下のように記されている。優れた先達の学恩に心からの感謝を捧げる。
合掌。


これを間きて、三浦、鎌倉、土肥次郎、岡崎、本間、渋谷、糟屋、松田、土屋、曾我の
人々、思ひ思ひに出立ちける程に、近の侍聞きへ、「我もいかでかのがるべき、いざや参らん」とて、相撲には大庭が舎弟三郎、俣野五郎、こし十郎、山内瀧口太郎、同三郎、海老名源八、荻野五郎、駿河には竹下孫八、合澤禰五郎、吉河、船越、入江の人々、伊豆には北條四郎、同三郎、天野藤内、狩野藤五を始として、宗徒の人々五百人、伊豆の伊東へぞ参りける。


天野藤内 天野藤内遠景を云ふ。藤原憲九代の孫景光の子なり。景光伊豆田方郡天野にし、在名を以て氏となし、内人となりて天野藤内と云ふ。遠景又内舎人となれり

2016年5月30日月曜日

史料 その十四  古今著聞集に見る天野遠景

高良社のご鎮座される三野郡本山庄の地頭、天野遠景は、大将家のきりものであった。斯様な有力者が、本山庄と係わっていたことは、特筆すべきことである。
以下、有朋堂書店刊行「古今著聞集」より、天野遠景の名が記された巻第九・武勇・第十二の項を画像データにて、ご紹介申し上げる。併せて、天野遠景の人となりを記した箇所を、テキスト化して添付する。
合掌。


古今著聞集 巻第九 武勇 第十二 

さる程に、右大将高麗国を攻めし時の追討使に、天野式部大夫遠景むかひけり。大将家のきりものにて、次官藤内といはれし藤内はこれなり。西国九国を知行の間、そのいきほいいかめし。



尚、297頁の鼇頭に、以下の句解が記されている。

きりもの - きれもの、権力盛なるもの











2016年5月26日木曜日

本ブログ関連記事について




本ブログは、史料の掲示に限っています。
関連の文章は、以下の二つのブログを、ご参照くださいませ。
合掌。


観音寺、四国、そして、日本
http://kanonji.blogspot.jp/

伝える会 日本史
http://tsutaerukai.blogspot.jp/

2016年5月11日水曜日

史料 その十三  岩清水文書に現れる本山庄の社家

大日本史料第七編之四、応永七年四月二十八日には、以下の綱文が記されている。

義満、讃岐守護細川満元をして、戸島三郎左衛門に給せし石清水八幡宮領同国本山荘公文職安堵状を召還し、同職を社家雑掌に渡付せしむ

この綱文は、岩清水文書(菊大路家文書)を元に作成されたもので、ここに、讃岐本山庄の社家が登場する。高良社に関心を持つ者にとって、特筆すべきことである
合掌。


 大日本古文書 家わけ  岩清水文書

大日本古文書 家わけ  岩清水文書



参考
綱文に記された外嶋氏は、豊島氏である。末裔かと思われる豊嶋孫太夫(留守居)、豊嶋五郎右衛門(明知行)の名が、生駒藩政文書(生駒家家臣分限ノ記、讃州御国中村切高惣帳)に見受けられる。孫太夫の知行所は三野郡勝間村にあった。
合掌。

生駒家家臣分限ノ記

2016年5月9日月曜日

史料 その十二  鎌倉遺文古文書編に見る天野遠景

吾妻鏡、大日本史料に続き、鎌倉遺文古文書編を紐解いてみた。そこには、天野遠景の名が記された数多くの文書が収録されていた。これより、第一巻所収文書から順に、通し番号、文書名、そして、天野遠景を示す名の表記を列挙することにする。
合掌。






鎌倉遺文 古文書編  第一巻

00056 源頼朝奏状 吾妻鏡文治二年二月廿八日條   天野藤内遠景

00119 大宰府守護所下文案 筑後上妻文書  藤原在判
00128 源頼朝書状 富田仙助氏所蔵文書   いつのとうないとをかけ
00179 大宰府守護所下文案 諫早家系事蹟集   藤原在判天野遠景
00234 源頼朝御教書 薩藩舊記雑録巻一   伊豆藤内
00236 源頼朝御教書案 島津家文書   伊豆藤内
00240 大宰府守護所下文案 豊後曾根崎文書  藤原在判
00262 源頼朝下文 島津家文書   藤内遠景
00273 大宰府政所下文案 豊前到津文書  藤原判
00318 大宰府守護所下文 肥前國分寺文書冩   藤原(花押影)  
00413 源頼朝御教書 薩藩舊記雑録巻二國分平二郎文書   伊豆藤内
00504 北條義時下文冩 正閏史料外編武久季督家藏   天野内舎人遠景
00512 源頼朝御教書案  豊前到津文書   伊豆藤内
00513 源頼朝御教書案  金澤文庫本豊前到津文書「對馬嶋」裏文書   伊豆藤内
00521 豊前往生院院主春宗申状案 肥後志賀文書  藤原在御判
00545 関東御教書案  宗像神社文書   藤内民部丞
00566 源頼朝御教書案  島津家文書   伊豆藤内



鎌倉遺文 古文書編  第二巻

00586 岩清水検校成清譲状  岩清水文書   遠景

00590 源頼朝御教書案 筑前宗像神社文書   伊豆藤内
00681 藤原某下文案 筑後上妻文書  散位藤原朝臣在判
00792 将軍源頼朝家政所下文案 豊前益永文書   藤原遠景
00793 藤原光定・重綱陳状 僧綱申文裏文書  遠景
00827 大神宮廰宣 神宮雑書  民部太夫天野遠景
00851 天野遠景請文案 河内金剛寺文書   散位藤原在判



鎌倉遺文 古文書編  第三巻

01738 源壹譲状案 肥前石志文書  本家藤内殿




鎌倉遺文 古文書編  第四巻

02577  尼覺阿傳領文書目録 河内金剛寺文書  民部大夫遠景



鎌倉遺文 古文書編  第五巻

03400 大隅守護北條朝時下知状 祢寝文書  遠景入道

03437 関東御教書 筑前宗像氏緒家文書  遠景朝臣
03470 肥前佐嘉領小地頭等申状案 肥前龍造寺文書  伊豆民部大夫



鎌倉遺文 古文書編  第十巻

06998 関東下知状案 筑後室園文書  藤内民部大夫遠景




鎌倉遺文 古文書編  第十一巻

07697 関東下知状案 薩摩高城村沿革史所収高城氏文書  藤内民部大夫遠景

08152 大神為貞申状案 豊前小山田文書  藤内民部大夫



鎌倉遺文 古文書編  第二十巻

14898 関東下知状案 肥後平川文書  伊豆藤内遠景



鎌倉遺文 古文書編  第二十二巻

16801 大神貞行申状案 豊前小山田文書  藤内民部大夫    



鎌倉遺文 古文書編  第三十六巻

28298  平河道照申状 肥後平川文書  伊豆藤内民部大夫遠景



鎌倉遺文 古文書編  第三十九巻

30748 鎭西下知状 島津伊作家文書  藤内民部遠景



鎌倉遺文 古文書編  第四十三巻(補遺第一巻)

50061 源頼朝下文状 肥前武雄鍋島家文書  伊豆藤内  



五月二十八日、
第一巻に00119・00240・00273・00521を、第二巻に00681を追加した。
今後も、順次、増補していく所存である。
よって、このスレッドは、未完である。
合掌。



付記
竹内理三氏の編纂になる大部の鎌倉遺文は、東京堂出版から刊行された。古文書編と索引編、そして補遺編を併せれば、五十冊を越える大変なお仕事である。竹内氏、そして、東京堂出版に、心からの敬意を表するものである。
合掌。

2016年5月1日日曜日

史料 その十一  大日本史料に見る天野遠景

大日本史料に散見される天野遠景に関する記事を纏めてみた。
以下、表記に関し、用例を挙げ、若干の説明を付す。
例えば、大日本史料第六編之三の七百十三頁に、天野藤内の記載がある。そして、引用史料は、天野系図である。亦、この項目は、七百十頁から七百十四頁にまで及んでいる。
こうしたことを、以下のように、略記した。
6-03-0713  天野藤内(天野系図) 0710-0714
合掌。






4-01-0155  天野藤内遠景(吾妻鏡) 0154-0155

4-01-0162  天野藤内遠景(吾妻鏡) 0162-0163

4-01-0191  藤原遠景(武田系図) 0188-0195

4-01-0450  藤内遠景(吾妻鏡) 0449-0450

4-01-0569  藤原 在判 天野遠景(諫早家系事跡集) 0567-0570

4-01-0713  藤原遠景・鎌倉民部蒸藤原遠景(吾妻鏡・歴代鎮西要略)

4-01-0840  鎮西守護人天野藤内遠景(吾妻鏡) 0838-0840



4-02-0046  天野藤内遠景(吾妻鏡)

4-02-0047  遠景(北條九代記)

4-02-0048  あま野の式部大夫遠景(古今著聞集)

4-02-0704  あま野の式部大夫遠景(古今著聞集) 0698-0706

4-02-0705  遠景(古今著聞集) 0698-0706



4-03-0375  内舎人藤原朝臣遠景・天野藤内左兵衛尉遠景(吾妻鏡) 0372-0380

4-03-0658  藤内民部丞殿(宗像文書内務省本)



4-04-0095  天野遠景(一代要記)

4-04-0096  伊豆藤内殿(宗像文書内務省本)

4-04-0244  遠景(岩清水八幡宮記録・営宮縁事抄). 0244-0245

4-04-0823 天野民部丞遠景(吾妻鏡) 0819-0826

4-04-0934 民部丞藤原(大友文書)

4-04-0935 天野民部蒸藤原遠景(歴代鎮西要略).



4-08-0583  遠景(古事談) 0583-0584



4-09-0711  天野民部入道蓮景俗名遠景(吾妻鏡)

4-09-0712  遠景(尊卑分脈藤原氏魚名孫・天野系図加賀)

4-09-0713  天野遠景(諸家系図纂九之三天野系図)

4-09-0714  遠景(諸系図二十二源・幕府諸家系譜卅一)

4-09-0715  天野民部蒸遠景(萩藩閥閲録七十三天野求馬系)

4-09-0716  天野藤内遠景(新編相模風土記稿八十九鎌倉郡二十一山之内庄扇ヶ谷村)

4-09-0717  天野遠景(増訂豆州志稿)



5-02-0429  散位藤原 0410-



5-03-0866  藤内遠景(島津國志) 0857-0878



5-26-0403  藤内民部大夫遠景(室園文書) 0402-0414

5-26-0410  藤内民部大夫遠景(筑後将士軍談) 0402-0414



5-27-0267  天野遠景 (武田系図). 0251-0275



6-03-0713  天野藤内(天野系図) 0710-0714

2016年4月21日木曜日

史料 その十  吾妻鏡に見る天野遠景

藤原遠景、爲鎮西九國奉行人、又給所々地頭職等

吾妻鏡


鎌倉政権の草創期、鎮西九國奉行人を務めた天野民部蒸遠景候は、嘗て、讃岐国三野郡本山庄と係わりのあった人々の内で、最も有力な武将であった。然るに、この事実を重視した当地の書冊は皆無である。為に、高良社、本山寺の関係史料集を編むに辺り、その鏑矢として、候に関する記録から纏めることにした。まずは、吾妻鏡記載分から。
合掌。


吾妻鏡に於ける天野民部蒸遠景候は、多様な名称で記されており、現在、確認を終えたものだけでも、かなりの表記がある。天野藤内遠景、遠景、藤内遠景、藤原遠景、内舎人藤原朝臣遠景、天野藤内、天野民部烝遠景、天野民部烝遠景入道、天野民部入道蓮景、天野民部入道蓮景俗名遠景等々。
以下、吾妻鏡に見る天野民部蒸遠景候に関する記述を、年代・巻数を添えて、以下、列挙する。
合掌。

1180年(治承四年)0806日  天野藤内遠景 01
1180年(治承四年)0820日  天野藤内遠景 01
1180年(治承四年)0824日  天野藤内遠景 01
1180年(治承四年)1019日  天野藤内遠景 01
1180年(治承四年)1023日  遠景 01
1184年(元暦元年)0616日  天野藤内遠景 02
1184年(元暦元年)0808日  天野藤内遠景 02
1185(元暦二年) 0126日  天野藤内遠景 03
1185(元暦二年) 0311日  天野藤内遠景 03
1185(文治二年) 1024日  天野藤内遠景 03
1186(文治二年) 0222日  天野藤内遠景 04
1186(文治二年) 0228日  天野藤内遠景 04
1186年(文治二年)0617日  藤内遠景 04
1186(文治二年) 1210日  藤原遠景 04
1187年(文治三年)0220日  遠景 05
1187(文治三年) 0922日  天野藤内遠景 05
1187(文治三年) 1105日  天野藤内遠景 05
1188(文治四年) 0221日  天野藤内遠景 05
1188年(文治四年)0517日  遠景 05
1191(建久二年) 0115日  内舎人藤原朝臣遠景、號天野藤内左兵衛尉 08
1195(建久六年) 0310日  天野藤内 10
1195(健久六年) 0312日  天野民部蒸遠景 10
1199(正治元年) 1028日  天野民部蒸遠景入道 10
1203(建仁三年) 0902日  天野民部入道蓮景 11
1207(建永二年) 0602日  天野民部入道蓮景俗名遠景 11




1186年 (文治二年) 12月10日  藤原遠景  

之由事、官府宣、謹拜見仕候了現在謀叛人跡之外
者、可令停止地頭綺之旨、面々加下知候者也早仰
國司領、可有御禁斷候歟此上、致張行之輩候者、注
給交名、可加炳誡候以此旨、可令言上給候 院宣
所請如件、頼朝頓首、恐惶謹言
  文治二年十一月廿四日  源頼朝 請文
廿九日 壬申 可捜求義行 改義顕 事、去十八日、
於 院殿上、有公卿僉議如先度、猶可被下 宣旨
於畿内北陸道於京都者、仰使廳、相分保々、可尋求
之又如奉幤諸社仁王會御修法御祈、可被始行之
旨、郡議一同之由、右武衛、被申送之 云々
   十二月小

一日 甲戌 千葉介常胤、自下総國參上今日献

盃酒二品、出御西侍上常胤、朝政、善信、義實、遠元、盛
長已下宿老、多以候其座縡及數巡、爪■十分常胤
起座、舞蹈善信、盡郢曲、歌催馬樂 云々
六日 己卯 御臺所、御參鶴岳有神樂、巫女職掌、
面々給禄 云々
十日 癸未 肥前國鏡社宮司職事、以草野次郎
大夫永平被定補是且任相傳、且被優奉公勞 云々 
日 藤原遠景、爲鎮西九國奉行人、又給所々地頭職
 云々
十一日 甲申 去年、同意行家義顯等之凶臣事、
依二品御欝胸、或被解却見任、或被下配流 官府



吾妻鏡

吾妻鏡

吾妻鏡

 大日本史料

2016年3月29日火曜日

史料 その九  幕府、石清水領讃岐本山荘地頭足立遠親を罷め、同職を宮寺に附す、

本山庄と立木工助遠親

大日本史料第五編之十を紐解くと、768頁に、
嘉禎二年(1236年)七月二十五日、「幕府、石清水領讃岐本山荘地頭足立遠親を罷め、同職を宮寺に附す、」との記載があり、769頁まで、関係史料が掲載されている、その内、769頁に、讃岐国本山庄という記述が見受けられる。以下、冒頭頁と当該頁、二葉を掲載する。亦、古事類苑地部29讃岐国にも、同様の記述が見られるので、ご紹介申し上げる。
加えて、典拠となった吾妻鏡の当該箇所を引用する。

   廿四日 己卯 南都騒動之間、在京人、并近國之
   輩催具一族、可抽警衛忠之旨、被仰下先訖一類不
   相從之由、近日自諸家、依其訴出來、向後大番以下、
   如此役、早可相從一門家督之旨、今日重被定之圖
   書左衛門尉、爲奉行、今日御移徙事、亦有其沙汰
   廿五日 庚辰 石清水領、讃岐國本山庄、被止足
   立木工助遠親知行地頭職、一圓被付宮寺 云云
     八月大
   三日 丁亥霽 戌刻、於新御所、被行鎮御祈大歳
   神、泰貞朝臣、宅鎮晴賢大土公、晴茂、大將軍、宣賢、王相、國繼、井靈、廣賢
   廐鎮道氏、七十二星、西岳眞人鎮、忠尚朝臣、於里亭、勤
   行之後、持參鎮物之處、以伊賀六郎右衛門尉、被仰

吾妻鏡には、慶長十年(1605年)官版活字本(全26冊)、慶長十年(1605年)富春堂活字本(全51冊)、寛永三年(1626年)整版本(全25冊)、寛文元年(1661年)整版本(全25冊)、寛文八年(1668年)仮名本(全52冊)等の古版本が知られている。本ブログへの紹介にあたっては、比較的保存状態の良い、寛文元年、野田庄右衛門が板行した「新刊吾妻鏡」を、テキストとして採用した。
合掌。

大日本史料第五編之十

大日本史料第五編之十

古事類苑地部29讃岐国

寛文元年(1661年)整版本 新刊吾妻鏡

寛文元年(1661年)整版本 新刊吾妻鏡

寛文元年(1661年)整版本 新刊吾妻鏡





補遺
寛文元年整版本新刊吾妻鏡の巻第三十二十一丁右頁に、足立木工助の名が記載されていることに気が付いた。以下、参考に供する。
合掌。


四十一番 信濃民部大夫  同三郎左衛門
   肥後四郎左衛門尉
四十二番 壹岐小三郎   足立木工助
   壹岐三郎左衛門尉
四十三番 佐原太郎左衛門尉 下総十郎
   伊賀次郎左衛門尉
四十四番 千葉八郎     相馬左衛門尉
   大須賀左衛門次郎
四十五番内藤七郎左衛門尉、押垂三郎左衛門尉
   春日部左衛門尉
四十六番 近江四郎左衛門尉 豐前大炊助
   加治八郎左衛門尉

2016年3月25日金曜日

史料 その八  天野遠景、款状を執権北条義時に致して恩賞を望む

本山庄と天野民部烝遠景

大日本史料第四編之九を紐解くと、711頁に、承元一年(1207年)六月二日、「天野遠景、款状を執権北条義時に致して恩賞を望む」との記載があり、717頁まで、関係史料が掲載されている、その内、716頁に、讃州本山庄之内五分三という記述が見受けられる。
以下、冒頭頁と当該頁、二葉を掲載する。
合掌。

大日本史料第四編之九

大日本史料第四編之九


付記
山口県文書館が1967年に刊行した萩藩閥閲録第二巻を紐解くと、巻73中に、天野求馬の項がある。そこに、天野遠景のことが記されていた。
合掌。


天野民部烝(遠景


始藤内 内舎人 左兵衛尉(左衛門尉)
後入道蓮景 従五位下 天野冠者

遠景、後三条院第三之皇子輔仁親王之男従一位有仁親王、少将基仁、子則遠景也、居住於伊豆天野圧、號稱天野、後足立養子、而譲地頭職等、故改足立稱號、文治二年十二月十日源頼朝卿鎮西九之奉行也


遠景所領之分
豆州天野庄狩野庄内牧郷、州本山庄之内五分三
州蒲形、武州多摩郡吉富、越後州加地庄 巳上地頭職 
豆州、参州飯 巳上公文 
州小野田郷 巳上惣公文職 
武州足立郡 己上領主
同州大畑名 已上地主職

右之内元譲与之分有之


貞應元年十二(七)月廿七日死

萩藩閥閲録第二巻

萩藩閥閲録第二巻


追記
天野遠景の墓と記した文章があることに気が付いた。
以下、添付する。
合掌。
菊池正美著「著長岡温泉案内」

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