2016年4月21日木曜日

史料 その十  吾妻鏡に見る天野遠景

藤原遠景、爲鎮西九國奉行人、又給所々地頭職等

吾妻鏡


鎌倉政権の草創期、鎮西九國奉行人を務めた天野民部蒸遠景候は、嘗て、讃岐国三野郡本山庄と係わりのあった人々の内で、最も有力な武将であった。然るに、この事実を重視した当地の書冊は皆無である。為に、高良社、本山寺の関係史料集を編むに辺り、その鏑矢として、候に関する記録から纏めることにした。まずは、吾妻鏡記載分から。
合掌。


吾妻鏡に於ける天野民部蒸遠景候は、多様な名称で記されており、現在、確認を終えたものだけでも、かなりの表記がある。天野藤内遠景、遠景、藤内遠景、藤原遠景、内舎人藤原朝臣遠景、天野藤内、天野民部烝遠景、天野民部烝遠景入道、天野民部入道蓮景、天野民部入道蓮景俗名遠景等々。
以下、吾妻鏡に見る天野民部蒸遠景候に関する記述を、年代・巻数を添えて、以下、列挙する。
合掌。

1180年(治承四年)0806日  天野藤内遠景 01
1180年(治承四年)0820日  天野藤内遠景 01
1180年(治承四年)0824日  天野藤内遠景 01
1180年(治承四年)1019日  天野藤内遠景 01
1180年(治承四年)1023日  遠景 01
1184年(元暦元年)0616日  天野藤内遠景 02
1184年(元暦元年)0808日  天野藤内遠景 02
1185(元暦二年) 0126日  天野藤内遠景 03
1185(元暦二年) 0311日  天野藤内遠景 03
1185(文治二年) 1024日  天野藤内遠景 03
1186(文治二年) 0222日  天野藤内遠景 04
1186(文治二年) 0228日  天野藤内遠景 04
1186年(文治二年)0617日  藤内遠景 04
1186(文治二年) 1210日  藤原遠景 04
1187年(文治三年)0220日  遠景 05
1187(文治三年) 0922日  天野藤内遠景 05
1187(文治三年) 1105日  天野藤内遠景 05
1188(文治四年) 0221日  天野藤内遠景 05
1188年(文治四年)0517日  遠景 05
1191(建久二年) 0115日  内舎人藤原朝臣遠景、號天野藤内左兵衛尉 08
1195(建久六年) 0310日  天野藤内 10
1195(健久六年) 0312日  天野民部蒸遠景 10
1199(正治元年) 1028日  天野民部蒸遠景入道 10
1203(建仁三年) 0902日  天野民部入道蓮景 11
1207(建永二年) 0602日  天野民部入道蓮景俗名遠景 11




1186年 (文治二年) 12月10日  藤原遠景  

之由事、官府宣、謹拜見仕候了現在謀叛人跡之外
者、可令停止地頭綺之旨、面々加下知候者也早仰
國司領、可有御禁斷候歟此上、致張行之輩候者、注
給交名、可加炳誡候以此旨、可令言上給候 院宣
所請如件、頼朝頓首、恐惶謹言
  文治二年十一月廿四日  源頼朝 請文
廿九日 壬申 可捜求義行 改義顕 事、去十八日、
於 院殿上、有公卿僉議如先度、猶可被下 宣旨
於畿内北陸道於京都者、仰使廳、相分保々、可尋求
之又如奉幤諸社仁王會御修法御祈、可被始行之
旨、郡議一同之由、右武衛、被申送之 云々
   十二月小

一日 甲戌 千葉介常胤、自下総國參上今日献

盃酒二品、出御西侍上常胤、朝政、善信、義實、遠元、盛
長已下宿老、多以候其座縡及數巡、爪■十分常胤
起座、舞蹈善信、盡郢曲、歌催馬樂 云々
六日 己卯 御臺所、御參鶴岳有神樂、巫女職掌、
面々給禄 云々
十日 癸未 肥前國鏡社宮司職事、以草野次郎
大夫永平被定補是且任相傳、且被優奉公勞 云々 
日 藤原遠景、爲鎮西九國奉行人、又給所々地頭職
 云々
十一日 甲申 去年、同意行家義顯等之凶臣事、
依二品御欝胸、或被解却見任、或被下配流 官府



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