藤原遠景、爲鎮西九國奉行人、又給所々地頭職等
吾妻鏡
鎌倉政権の草創期、鎮西九國奉行人を務めた天野民部蒸遠景候は、嘗て、讃岐国三野郡本山庄と係わりのあった人々の内で、最も有力な武将であった。然るに、この事実を重視した当地の書冊は皆無である。為に、高良社、本山寺の関係史料集を編むに辺り、その鏑矢として、候に関する記録から纏めることにした。まずは、吾妻鏡記載分から。
合掌。
吾妻鏡に於ける天野民部蒸遠景候は、多様な名称で記されており、現在、確認を終えたものだけでも、かなりの表記がある。天野藤内遠景、遠景、藤内遠景、藤原遠景、内舎人藤原朝臣遠景、天野藤内、天野民部烝遠景、天野民部烝遠景入道、天野民部入道蓮景、天野民部入道蓮景俗名遠景等々。
以下、吾妻鏡に見る天野民部蒸遠景候に関する記述を、年代・巻数を添えて、以下、列挙する。
合掌。
1180年(治承四年)08月06日 天野藤内遠景 01
1180年(治承四年)08月20日 天野藤内遠景 01
1180年(治承四年)08月24日 天野藤内遠景 01
1180年(治承四年)10月19日 天野藤内遠景 01
1180年(治承四年)10月23日 遠景 01
1184年(元暦元年)06月16日 天野藤内遠景 02
1184年(元暦元年)08月08日 天野藤内遠景 02
1185年
(元暦二年)
01月26日 天野藤内遠景 03
1185年
(元暦二年)
03月11日 天野藤内遠景 03
1185年
(文治二年)
10月24日 天野藤内遠景 03
1186年
(文治二年)
02月22日 天野藤内遠景 04
1186年
(文治二年)
02月28日 天野藤内遠景 04
1186年(文治二年)06月17日 藤内遠景 04
1186年
(文治二年)
12月10日 藤原遠景 04
1187年(文治三年)02月20日 遠景 05
1187年
(文治三年)
09月22日 天野藤内遠景 05
1187年
(文治三年)
11月05日 天野藤内遠景 05
1188年
(文治四年)
02月21日 天野藤内遠景 05
1188年(文治四年)05月17日 遠景 05
1191年
(建久二年)
01月15日 内舎人藤原朝臣遠景、號天野藤内左兵衛尉 08
1195年
(建久六年)
03月10日 天野藤内 10
1195年
(健久六年)
03月12日 天野民部蒸遠景 10
1199年
(正治元年)
10月28日 天野民部蒸遠景入道 10
1203年
(建仁三年)
09月02日 天野民部入道蓮景 11
1207年
(建永二年)
06月02日 天野民部入道蓮景俗名遠景 11
1186年 (文治二年) 12月10日 藤原遠景
之由事、官府宣、謹拜見仕候了現在謀叛人跡之外
國司領、可有御禁斷候歟此上、致張行之輩候者、注
給交名、可加炳誡候以此旨、可令言上給候 院宣
所請如件、頼朝頓首、恐惶謹言
文治二年十一月廿四日 源頼朝 請文
廿九日 壬申 可捜求義行 改義顕 事、去十八日、
於 院殿上、有公卿僉議如先度、猶可被下 宣旨
於畿内北陸道於京都者、仰使廳、相分保々、可尋求
之又如奉幤諸社仁王會御修法御祈、可被始行之
旨、郡議一同之由、右武衛、被申送之 云々
十二月小
一日 甲戌 千葉介常胤、自下総國參上今日献
盃酒二品、出御西侍上常胤、朝政、善信、義實、遠元、盛
長已下宿老、多以候其座縡及數巡、爪■十分常胤
起座、舞蹈善信、盡郢曲、歌催馬樂 云々
六日 己卯 御臺所、御參鶴岳有神樂、巫女職掌、
面々給禄 云々
十日 癸未 肥前國鏡社宮司職事、以草野次郎
大夫永平被定補是且任相傳、且被優奉公勞 云々 今
日 藤原遠景、爲鎮西九國奉行人、又給所々地頭職
等 云々
十一日 甲申 去年、同意行家義顯等之凶臣事、
依二品御欝胸、或被解却見任、或被下配流 官府
吾妻鏡
吾妻鏡